完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫) | |
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私が初めて見たプロレスの記憶は、4,5歳のころだったと思うが、母の実家で親戚の集まりがあったときにテレビに映っていた、ジャイアント馬場対フリッツフォンエリックだった。鉄の爪、アイアンクローで掴まれた馬場の額の部分から血が流れ出しているのを見て、小さかった私は怖くてそれ以上見ていられなかったが、親戚のおじちゃんは冷静に「この外人は握力がすごくて、りんごも簡単に握りつぶしちゃうらしいよ」などと言っていたのが記憶に残っている。
そんな初遭遇のせいかどうかわからないが、それからの私は、ジャイアント馬場のプロレスが好きになった。そのせいで、妹までプロレスに詳しくなってしまった。DDTの正式名称がDangerous Driver Tenryuであること、パイルドライバーにはドリルアホールとツームストンがあること、キムイル(大木金太郎)とタッグを組んでいた弟(と言う設定)のキムドクはタイガー戸口であること、など女の子が知る必要のない知識を身につけてしまった妹は、飲み会などで男子がプロレスの話を始めると、自分を抑えきれずに彼らを上回る知識を思わず披露してしまい、「全然もてなくなった」と私のせいにしたりした。
そんな私もアントニオ猪木のプロレスを全く見ないわけではなかった。当時巷では、猪木のプロレスの方が本物だというような空気があったが、実際に見てみると違和感があった。ひとつは、猪木が常にメインイベンターであり、結局猪木が全部もっていく展開であったこと。もうひとつは、これはあまり指摘されないのだが、ストロングスタイルを標榜する猪木のプロレスの方が、約束事が多い、と感じられたことである。プロレスには目潰しはいけない、金的攻撃はいけないなどの明示化されたルールがもちろんあるが、プロレスをずっとみてくると、それ以外の暗黙のルールがあるのだな、ということがだんだんわかってくる。その暗黙のルールが、猪木のプロレスは馬場のそれよりもずいぶん厳しいのだな、ということが感じられたのだ。例えば、水平チョップは普通相手の胸に打つが、馬場のプロレスでは試合が佳境に入ってくると、チョップを喉元に入れたりする。喉は急所の一つであるが、試合終盤でそのようなことが起こるのは普通のことである。ところが猪木のプロレスでそのようなことが起こると、対戦相手もレフェリーも大きく抗議する、というようなことである。他にも同様のことがいくつも見受けられた。その事実は、ストロングスタイルという猪木のメッセージに大いなる疑問を抱かせた。
それが端的に現れたのが、前田が長州の額を蹴って出場停止になった事件だ。そんなことは馬場のプロレスでは、天龍が毎日のように行なっている。そのころは既に猪木の衰えは明白になっていた時代だが、それにしても猪木のプロレスとは何なんだ、と思ったものだ。
そんな私も、猪木がプロレスファンにカタルシスを与えたいくつもの試合のことは知っている。しかし、その天才によって繊細に作り上げられたそれらの試合が喝采を浴びた一方で、まさにストロングスタイルを体現したモハメッドアリとのリアルファイトを凡戦だ八百長だと非難されたのは、なんという皮肉だろうか。本書は、猪木の長いキャリアのうち1976年という年にのみ行なわれた3つのリアルファイト(と1つのリアルファイトと思われていた試合)について詳細に調べられ書かれた本である。
プロレスが元来胡散臭いものであるせいか、プロレスについて書かれた本も、えてして真偽がはっきりとしない、胡散臭いものであることが多い。しかし本書はそれらとは一線を画す。猪木についてはもちろん、対戦した4人(ウィリエムルスカ、モハメッドアリ、パクソンナン、アクラムペールワン)の生涯についても、すなわちそれは猪木との戦いがその後の彼らにどのような決定的な影響を与えたかということでもあるが、豊富な取材と引用文献によって明らかにしている。プロレスについてのこのようなノンフィクション、つまりニュージャーナリズムの手法で書かれた著作は非常に貴重であり、かつてのプロレスのファン、そして現在の総合格闘技のファンも、必携の書であると思う。
とともに、本書の出現は、日本でのプロレスの時代の終わりをも意味しているのだろうか。プロレス大好きだった私は、社会人になって、馬場全日本の後期、そしてNOAHの設立後も、十分プロレスを楽しめていた。しかし、今NOAHの中継を見ても、十分感情移入できない自分がいる。私の中にあったファンタジーは知らぬ間にどこかへ消えうせていた。本書はその自覚をはっきりさせた。もうあのころには戻れないのである。
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